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連載  e-meatタカノの”牛肉”の歴史を尋ねる

このページでは、牛肉を食べ始めた歴史について考えていく予定です。
第1回   エジプトの壁画
紀元前3000年〜前2000年のピラミッドの壁画に「牛肉を食べている様子」があると言われている。
単なる噂かと思い「GOOGLE」で検索すると、あるわあるわこの話し!でも、確かだと証明できる証拠が何もない・・・。
 図書館で本を漁ったところ、あの有名な吉村作治さんが文章を書き、熊瀬川紀さんが写真を撮影した本で「エジプトの古代遺跡」という本がありました。その中に、「牛の頭数調査」を行なっている模型という写真が掲載されています。中王国時代第11王朝の高官メケトラーの墓から出土したものらしいです。紀元前から牛は家畜として飼われていた事実からして、牛肉を食べていてもおかしくないと思います。また、壁画に牛の絵が幾つか描かれている写真があり、おそらく問題の「牛肉を食べている様子の壁画」がどこかにあると考えます。結論として、紀元前3000年〜前2000年にエジプトで牛肉を食べていた可能性がある。
次回は、日本の昔に飛んで「大国主の命」の噂を検証します。
第2回   大国主の命(おおくにぬしのみこと)
 前回のエジプトの話と同様に、苦労しました。
まず、当店に寄せられた情報と同じ、他のWEBサイトで記載されている「紀元前3000〜前2000年のエジプトで牛肉を食べている様子がピラミッドの壁画にある。
日本は大国主の命が農民に牛を食べさせた伝説がある。」の情報の出所を突き止めました。「食材図典 秋庭隆著 小学館」という本に出ています。
そこからが、苦労したのですが、まず大国主の命が何者か?「雲国造(いずもののみやつこ)の祖神。根の堅州国(死者の国)の須勢理売(すせりひめ)、八上比売(やがみひめ)、沼河比売(ぬなかわひめ)など多くの女性を妻とした。」  さっぱり、分かりませんが、そうとうモテタようです「因幡の白兎に出てくる、鰐に剥がれた白兎に治療法を教えてあげた方のようです。また、古事記と日本書紀に記載されているそうです。」(日本大百科事典 小学館 より)これは、分かる!!ということは、日本書紀と古事記を調べれば出ているのかな?...古事記を紐解くと、日本書紀を紐解くと....さっぱり分かりません!現代語になってない翻訳を何とかたどりましたが、大国主の命はあっても、牛のことなんて、全然書いていません!おまけに、古事記も日本書紀も、出雲から遠く離れた大和朝廷で作られたものであり、大国主の命の時代が分からないものの、時代的には相当離れていたれていたと思われます。ということで、「大国主の命の話は、地方の民話であるのかもしれませんが、牛を農民に食べさせた事実はない!!」と断言します。
次回は「誰が日本で最初に牛肉を食べたのか!」を検証します。
第3回   日本で誰が最初に牛肉をたべたのか
答えは弥生人だと考える。
「ウシも縄文時代にはまだ棲息したり、飼育されていた証拠はありません。「弥生時代になると確かな出土例があります。」(貝と獣骨の知識 金子浩昌著 東京美術より)貝塚から、イノシシ、鹿、サル、野うさぎ、変わったところではイルカも出土しています。これらは、古来日本人が様々な肉を食べていたことになります。だは、いつからそれらを食べなくなったのでしょうか。
「日本書紀、続日本書紀に、牛馬犬猿鶏の宍(しし)のを食うことの禁令がでている。・・・仏教の興隆に伴って殺生禁の感覚が鋭くなった。」(食生活の歴史 瀬川清子著より)禁令がでるということは、その当時、牛を食べていたことになる。
年代を遡ると、弥生時代とは紀元前400年頃〜紀元後200年頃になります。邪馬台国が魏に遣使を送ったのが239年で、この頃に弥生時代が終わっています。その後古墳時代を経て、飛鳥時代の538年ごろ仏教伝来があったといわれています。日本書紀ですが、その後の奈良時代の720年に編成されています。
ということは、歴史的記述がないだけで、紀元前400年〜紀元後700年頃までの約千年間牛肉を食べていたと推測されます。
第4回   黒毛和牛の歴史
和牛の代表的な牛である黒毛和牛は、実は純粋な日本の牛ではないのです。明治になり、各県において良質な牛を作り出すために、外国種と和種の交配が行なわれました。例えば、兵庫県では、ショートホーン、デボン、ブランスイスなどの3種の牛と和種が掛け合わされ、広島や島根ではこの他にエアシャーという外国種も掛け合わせています。その掛け合わせから100年以上たっていますので、現在は和種(和牛)という名がついています。
第5回   褐毛和牛(和種)の歴史
あまり聞かない名前ですが、黒毛和牛と同じように、この牛も和牛として取り扱われます。以前は、タカノファームにもいましたが、最近は闘牛の牛として飼育されているだけで、出荷されていません。黒毛和牛と同様に、良質なお肉を作り出すために、明治後の短い期間外国種と掛け合わせがされました。それから、10年ほど経つことにより、現在は和牛(和種)として取り扱われています。褐毛和牛の古里は、もともとは熊本県と高知県であり、朝鮮牛と和牛(一部外国種)を掛け合わせて出来たものであり、現在はその牛が、全国に広がっています。
第6回   国産牛の歴史
ホルスタインの去勢の雄牛と雌牛、乳用種と和牛の交雑種と国内で3ヶ月以上飼われていた牛を国産牛と呼びます。牛乳を作るためにはホルスタインが適していますが、牛乳を出すためには子牛を産ませる必要があります。このときに、乳牛とならない牛が食肉用として出荷されます。1963年ごろから、人工哺育の技術が開発され、それまで子牛で加工原料とされていたホルスタインが牛肉生産に定着しました。歴史の浅い牛ですが、国産牛が登場したことで、安く牛肉が食べられるようになりました。
第7回   越後長岡牛のふるさと
越後長岡牛の古里、山古志村では昔から牛を飼っていました。江戸期の小説で有名な「南総里見八犬伝」(滝沢馬琴)に、次のことが書かれています。
「古志郡二十村には、毎年三・四月の頃、或いは丑の日、或いは寅の日のよきひがらを選び定め、角突きと唱える闘牛の神事あり」この文書により牛の角突きが、初めて全国に紹介された。
さらに、八犬伝随一の怪力「小文吾」が山古志の地で暴れ牛を取り押さえたとされています。
この八犬伝での紹介以来、幕末には牛の角突きの江戸興業も行なわれていました。
角突き以外に、荷物運搬、耕作、堆肥作りを目的として、江戸末期には60頭以上の牛がいたとされ、他所に売られる目的でも肥育されていたといわれています。
食用にされたのは、開国後の1863年山太郎というものが、小田原に27匹の牛を外国人に売ったのがはじめとされています。




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